ブルノ・ビエンナーレの魅力
チェコ第2の都市であるブルノで2年に1度、グラフィックデザインの祭典が行われているのをご存知でしょうか?今回はライターで『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』の著者でもある増田幸弘さんにブルノ・ビエンナーレについて書いていただきました。
増田さんには、2018年11月5日にチェコセンターで行われる講演会「ブルノ・ビエンナーレと日本のデザイナー」で登壇いただきます。
もっとビエンナーレについて知りたい方は、ぜひこちらにもお越しください!
デザインで国際交流を
第1回ブルノ国際グラフィック・デザイン・ビエンナーレが開催されたのは1964年のことでした。この展覧会は冷戦のさなか、デザインを通じて国際交流を果たしたいという1人のデザイナーの熱い思いからはじまりました。ちょうど東京オリンピックの年で、体操のチャースラフスカーさんが3つの金メダルをとった年です。
ブルノ・ビエンナーレの反響は大きく、さっそく2年後の1966年、ポーランドでワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレがはじまったほどです。社会主義の時代、日本からも多くのデザイナーたちが出品しています。11月5日のイベントで証言をいただく勝井三雄さんのほか、横尾忠則さん、福田繁雄さん、永井一正さん、田中一光さん、佐藤晃一さんらデザイン界の巨匠たちがこぞって参加し、日本のデザイナーが何度もグランプリに輝きました。
ビエンナーレとの関わり
2006年、『PEN』という雑誌で「レトロな魅力がいっぱい、東欧のグラフィック」(2007年2月1日号)でチェコとスロヴァキア、それにポーランドを担当したのが縁で、私は2008年の第23回ブルノ・ビエンナーレと、2010年の第24回ビエンナーレで美術館のスタッフとして働く機会を得ました。
第23回では2004年の第21回ビエンナーレでグランプリに輝いた立花文穂さんの大がかりな個展が開催されました。グランプリ受賞者は4年後、展覧会を開くことができるのです。これはビエンナーレがポスターと書籍の2つのカテゴリーに大きく分かれ、2年ごとに開催されてきたことによります。

デザイナーとの濃密な時間
1週間あまりの日々を1人のすぐれたデザイナーと行動を共にするのは実に刺激的な経験でした。おまけにチェコのほか、ドイツ、イギリス、スロヴェニア、アメリカから訪れた国際審査員たちと一緒なのです。第24回展では審査員に招かれた佐藤晃一さんと過ごしました。
東京でデザイナーと打ち合わせをすると、ばたばたと仕事についての用件だけで終わるのがほとんどですが、ブルノに流れるゆったりした時間のなか、ビールを飲みながらデザインや生きざまの話を聞かせていただいたのですからたまりません。

順番から行けば2010年にグランプリを受賞したヤスダユミコさんが2014年に個展を開くはずでしたが、2012年から2016年にかけて、ビエンナーレを変革する試みがあり、残念ながらその機会がありませんでした。この3回はデザインというよりアートに近い展示に思いました。批判もあり、本年に開催された第28回展は従来の形式に戻りました。
ビエンナーレの原点
こうした行きつ戻りつする動きを見るたび、いつもながらにチェコらしいなと思いますが、デジタルやインターネットがデザインばかりか、国際交流のありようまで大きく変えてきたのを敏感に反映しているからにはかなりません。それでも、取材者として、スタッフとして、そして鑑賞者として、それぞれ別の立場からブルノ・ビエンナーレをこの12年あまり見守ってきた目線からすると、ビエンナーレをはじめたヤン・ライリフさんの気持ちがやはり原点ではないかと思えてなりません。

世界の第一線で活躍するデザイナーたちが束の間ブルノという街で膝をつき合わせ、デザインについて語り合うなんて素敵だと思いませんか。子どものころの運動会で万国旗が校庭一面にはためく光景がいまでも目に焼きついています。それは極めて70年代的な記憶かもしれませんが、そのシンプルな平和への思いを私はブルノ・ビエンナーレを通じていつも思い出すのです。

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増田幸弘
フリー記者/編集者。スロヴァキア在住。『プラハのシュタイナー学校』(白水社)、『黒いチェコ』(彩流社)、『不自由な自由 自由な不自由 チェコとスロヴァキアのグラフィック・デザイン』(六耀社)などの著作がある。